1990年4月から東心斎橋の無国籍料理店で働かせていただき、 それまでの短い人生の中で初めて出会う味に圧倒されました。 中国料理の偉大さ、タイ料理の辛味、酸味、甘味で形成された味、何よりもタイの宮廷料理の洗練さには驚きました。 そしてマレー、インドネシア、シンガポール各国々の味付けがとても新鮮で、時々『あれ?これって美味しいの?』っていう料理もありましたが、後々現地でその料理を食べるとその気候、風土に基づいた料理なんだとわかってきます。
最初は野菜の下準備の仕事を教えてもらいました。 上手くできない、、、もっと高校の時の調理実習を頑張っていたらと、どうにもならない事を考えながら悪戦苦闘中、高校の時の事をよく思い出しました。
高校最後の調理実習は試験を兼ねての自由課題で好きなものを5、6人のグループで作ります。 私たちグループには家が焼肉屋さんが一人いて、お店からお肉を買って調理実習に持っていき、えらく先生に怒られたなんてことをです。
指にたくさんの絆創膏を貼りながらなんとか野菜の下準備ができるようになり、次はベトナム料理の生春巻きゴイクンの作り方を教えてもらいます。 ゆっくりでも何か作れるようになると面白くなっていきます。 素人の私をなんとかクビにならずに働かせてもらい、休みの日はシェフの家でご飯を食べさせてもらったり、レストランに連れて行ってもらったりと大変お世話になりました。
6月にタイへ勉強を兼ねた社員旅行があると聞き大喜びをしてましたが、現実は甘くなくまだ3ヶ月しか働いていない私は一人お留守番になりました。 でも4日間のお休みです! 週末仕事だったレストラン業でしたので、久しぶりに友達にも会えました。 それとシェフの計らいで、お金は出してやるからお前が食べに行きたいと思っているレストランへ行ってこいとの許しが出まして大興奮! 友達と、ものすごーい高いフレンチをスーツを着て食べに行きました。
後でシェフに「なんでフレンチなんや」と大目玉を食いましたが。 まだその頃は高級東南アジア料理店は大阪になく(中華料理は除く)それだったら今まで食べたことのないような美味しいものを食べようと思い大阪で屈指のフレンチのレストランへ行ったとシェフに説明すると、 私の頭を叩いて笑っておられました。
そしてフレンチを食べた次の日、東京へ行き東京の友達が前もって東京のホテル内にある高級ベトナム店を予約してもらいランチへ。でも本物のベトナム料理を食べてないから美味しいか不味いか判断できない。 ..
日本人の美味しさを基準とした美味しさなら文句なし美味しかったですが、現地の人が食べたらどういうのか疑問です。 自分で判断できないモヤモヤが生まれ、答えの出ない領域に入ってしまいました。 和食は日本で生まれ育ちましたから慣れ親しんでいます。 でも日本の中でも地方によって気候の違いで味付けが変わると自分の好き嫌いで判断をしてしまいます。 「何が正しいのか、、、」 そしてその夜は私が働いている無国籍料理店と取引のある東京のインドネシア料理の老舗のレストランへ行きました。 大変美味しかったです。
ややこしい事は考えず本能で美味しいかどうかを判断する事で私の心は落ち着き、満足しました。 暑くなってきた6月にバッチリの東南アジア料理東京編の旅は明日で終わります。これからは大阪に戻り現地の人が作った東南アジア料理店を探し食べ歩きしようと決意するのでした。
そしてレストランのスタッフさんが無事に帰ってこられお土産もいただき翌日にはレストランオープンです。 少しずつですが私もスタッフの一員に近づいてきたかなと思うようになってきました。 8月のお盆休みの連休まで後1ヶ月半、、楽しみにしながら皿洗いをしていました。 そして月日が流れフライパン、中華鍋の使い方を教えてもらいなんとか一通りメニューが作れるようになりました。
働き始めて2年6ヶ月が過ぎる頃、たしか1992年の10月末、無国籍料理店を運営していた会社が業務委託の形でシンガポールのイタリア料理店を運営していたのですが、なんとそこで仕事をしないかとお誘いをいただきました。 思わず即決で返事をしたのを昨日のように覚えています。
正直なところ3年経ったらレストランをやめてバックパッカーでベトナムへ行こうと計画をしていました。 ベトナム料理は多大なフランス食文化の影響があり、西洋と東洋の食文化を融合した魅惑な料理が気になっていたのです。 まあさて、初めての海外生活に夢を膨らませ、まだ関西国際空港はなかったので伊丹空港から1993年3月16日友人や諸先輩方に見送られ旅立ちました。 まさかこれから現在まで海外生活が続くなんて夢にも思っていません。24歳の若造です世間を舐めきってます。 これからの試練も知らずに、、、 なんの疑いもなく飛行機に搭乗するのです。さようなら日本! 続く