トスカーナからHappy Holiday!!
21/12/20202. 思いがけないチャンス到来!
30/03/2021
ヒロです
怒涛の海外調理師生活28年!と題して、 どのようにしてイタリアまでたどり着いたのか、どうしてイタリアだったのか、右も左もわからないまま過ごした失敗の連続、嬉しかったこと、悲しかったこと、料理のことから海外生活についてまで色々とブログに書き綴っていきます。 . 調理師の方、海外生活を始めようとする方、時代は変わっても何かのヒントになればと思いますので、どうぞお付き合いください。
今の仕事
私は1993年から海外で調理師として働いています。 1995年からは各地のイタリアのリストランテやオステリアで働き、2015年から出張料理人としてフリーランスで家族と過ごす南トスカーナでワイナリーを中心に料理を作っています。 私事ですが、これまでの楽しい、悲しい、嬉しい出来事の思い出を書き留めたいと思っています。もちろん南トスカーナの食材や地元に根付いた料理や生活様式を皆さんにご紹介できたら嬉しいと思います。 よろしくお願いします。 さて、私のこれまでの経歴というか思い出話を交えながら書かせていただきます。
学生時代
1969年生まれ、 京都府出身 地元の高校を卒業し、その後、大阪市内にある情報処理専門学校に進学しました。 学校が終わると音楽と古着とビンテージカーが大好きだった私は友達とよくミナミのアメ村の古着屋や中古レコード店をうろうろしていました。 週末になると必ず京都の一乗寺辺りのプールバーで働いている地元の高校の1つ上の先輩のところへ遊びに行って彼の所有するかっこいい1963年のVW BEETLEでDAYTONのワイヤーホイールを履いて、 車内は8インチのチェーンハンドルが光ります。 そして車高が地面から7インチもない。 「メキシカンスタイルのローライダーでVWなんて初めてや、、、」 左斜めから見た車の美しさに惚れ惚れしながら友達と夜な夜な外で雑談してました。
夏休みには地元のプールの監視員のバイトをしたりして2年間の専門学校生活が終わりました。 今から考えるとあの時ほど毎日が楽しくで自由な時はなかったでしょう。 そして楽しかった学生生活も終わり就職をしなければなりません。
仕事
フリーターでもよかったんじゃないかと今では思うのですが、なぜか就職活動をして大阪江坂にある婦人服の革製品の卸業者に就職しました。 大阪の百貨店の婦人服売り場で納品、販売、在庫の管理をする仕事です。 私は梅田の阪急百貨店に配属になり毎朝社用のバンに乗り梅田に行って販売し、在庫確認をして仕事が終わる。 大変な仕事です。 初めてのサラリーマン経験です。 何もかもが初めての体験で楽しかったですがどこかで自分に合っているのかな? と考え始め、生意気ながら1ヶ月足らずで会社を辞めました。
地元へ帰る
そして地元に帰ってバイト生活が始まります。
地元は京都市から北へ60キロのほどにある綾部市です。 都会みたいにいろんなバイトがあるはずもありません。 まして永久就職じゃなくて1年くらいのバイトです。 土木作業員、遺跡発掘、水商売、、、限られすぎです。
そこへあの憧れのVWビートルを乗っていた高校の先輩が地元に帰っている事を聞き、アルバイト情報を聴きます。 先輩は2交代性の地元の工場で委託業務の形で働いてました。業務内容は電化製品に取り付ける小さいコンデンサーの製造です。 まあ先輩もいるしいいかとなんとか会社の上司の方と連絡を取りアルバイト決定です!また大阪に帰ると考えていたので、取りあえずこれから何をするにもお金は必要です。 目標100万円を掲げて頑張るのでした。
学んだ事
でもこの仕事をしたおかげでいろんな事を勉強しました。 組織の中で働くということの大事さや、私と一緒に働いていた14、5名の同僚は業務委託なので職場の正社員ではありません。 まだ将来何をしたいかわからないので取りあえずバイトをしている人もいれば、私みたいな前の仕事が上手くいかなくて地元に帰ってくる人、家族を養うためにお金の為だけで働いている人、 一人一人の考え方や世の中の捉え方の違いに色々考えさせられました。 どうしても20歳前後の交友関係は非常に狭く、同じ感覚の考え方で喋ったりする人間同士が集まっていしまいがちです、私もそうでした。 息のあった友達と遊ぶのは楽しいですし、 違うグループの事は全く意識しません。 しかし自分がこれまで全く意識もしていなかった地元の工場の中で働かなかったら全く一人一人が違う環境で生まれ育って一人一人の考え方の違いがあるとは知らなかったのです。 要するに私は世間知らずだったのです。小さな街で工場内で正社員で働いている同級生のお母さんに小学生の時に接してもらってる時と同じように声をかけてもらい嬉しかったのが一番の思い出です。この友達のおばちゃんのように自分はこれから先、いつどこで覚悟を決めて好きな仕事をしていくのか想像もつきませんでした。何かしら現実の厳しさが垣間見れて少しづつ世間というものがわかってきたのかもしれない時期でした。 綾部市に戻ってから1年後、お金も目標金額に達成し少しずつ大阪に戻る準備をし、「久しぶりに大阪に遊びに行くか!」と思い大阪の友達に連絡します。
再び大阪へ
バイトをしながら何も考えずぶらぶらと東心斎橋を歩いていると無国籍料理店のシャッターに『調理師募集』の貼り紙があるではありませんか! 其の足でお店に飛び込み働かせてほしいと若気の至りか無理なお願いをし ・調理経験なし これまで包丁を持った記憶が少し そこから私の調理師としての人生がスタートしました。
もしもそのレストランで働いていなかったら、、、 もしも違うレストランで働いていたら、、 私の人生が変わっていたと確信しています。全くの素人の私を辛抱強く教えていただいたオーナー、シェフ、レストランで働く諸先輩の皆様方本当にありがとうございました。